「藤野先生」は回想録か 魯迅小説言語拾零(3)
日本語と中国語(386)
(4)留学生仲間に愛想を尽かして
“東京也无非是這様。”「藤野先生」の書き出しはこうである。「東京も別に変わりはなかった」(増田渉訳)、「東京も格別のことはなかった」(竹内好訳)、「東京も同じようでしかなかった」(駒田信二訳)。三人三様である。まだまだある。すべてを列挙したならば、おそらく十指に余るであろう。
何と比べて「変わりはなかった」、「格別のことはなかった」、「同じようでしかなかった」と言っているのであろうか。このことについてはちょっとした論争があったように記憶しているが、さてどういう結末であったかは、にわかには思い出せない。或いは結論は出ずじまいであったかもしれない。
この後にこんな描写が続く。上野の桜が満開の頃は、公園では「清国留学生」が頭のてっぺんに弁髪をぐるぐる巻きにして、その上に学生帽を載せて隊伍を組んでいる。中国留学生会館へ本を買いに行くと、奥の洋間でドスンドスンと地響きを立て、部屋中ほこりが舞い上がっている。聞いてみると、“那是在学跳舞”(あれはダンスの稽古さ)とのことである。
そこで、“到別的地方去看看、如何呢?”(ほかの土地へ行ってみたらどうだろうか)ということになり、「私」は仙台の医学専門学校へ行くことにした。1904年9月のことである。
1902年1月に南京の鉱路学堂を卒業した魯迅は、同年4月に日本に留学している。東京の弘文学院で日本語を学ぶことになるが,在学中の1903年の夏休みに一度帰省している。“東京无非是這様”という感慨は,おそらくこの帰省から戻った時のものであろう。相変わらず隊列を組んで公園をぶらつき、ダンスにうつつを抜かしている留学生仲間に愛想を尽かしたのである。だとすれば、上の三様の訳、どれも通じなくはないが、駒田訳がいちばんわかりやすいように思う。
(5)「日暮里」はまだ無かった」
“从東京出発,不久便到一処驛站,写道:日暮里。”東京を出ると、まもなくある駅に着いた。見ると「日暮里」とあった。日暮れる里。賑やかな東京を離れてこれから向かう先での日々を、いわば作者の心象風景を写したかのようなうら寂しい駅名である。この一文は、作品の中で極めて大きな役割を果たしている。
ところがである。これはもう何人かの研究者が指摘していることであるが、『日本国有鉄道百年史』等の資料によると、日暮里駅が開業したのは1905年4月1日なのである。なんと、魯迅が仙台へ向かったであろう1904年9月には、日暮里駅はまだ存在しなかったのである。
これを単なる記憶違いとみなすことも、もちろん可能である。わたくしたちも、とかってに複数形にしてはいけないかな?少なくともわたくしなどはこの種の誤りをしばしば犯しているのであるから。先日も学生時代の先輩に、ある教授の講義を聴いたことがあると話したら、「その教授は君の在学中には退官されていたはずだ」と言われて狼狽(ろうばい)したばかりである。確かに先輩の言うとおりだが、それでもわたくしは自分の記憶を疑わない!
魯迅先生も記憶違いをされたか。そうではないだろう。「日暮里」といううら寂しい名の駅を通過して仙台へ向かったとすることによる効果を十分に計算したうえで、あえて「創作」したと見るのが事実に近いであろう。
先に「藤野先生」は回想録の体裁をとってはいるが、「創作的要素を多分に含むかに思われる」と記したのは、このような事実をふまえてのことである。(執筆者:上野惠司 編集担当:水野陽子)
“東京也无非是這様。”「藤野先生」の書き出しはこうである。「東京も別に変わりはなかった」(増田渉訳)、「東京も格別のことはなかった」(竹内好訳)、「東京も同じようでしかなかった」(駒田信二訳)。三人三様である。まだまだある。すべてを列挙したならば、おそらく十指に余るであろう。何と比べて「変わりはなかった」、「格別のことはなかった」、「同じようでしかなかった」と言っているのであろうか。このことについてはちょっとした論争があったように記憶しているが、さてどういう結末であったかは、にわかには思い出せない。或いは結論は出ずじまいであったかもしれない。
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2013-12-25 10:45